LOGIN季節が変わっていた。
朝、台所の窓を開けると、空気が冷たかった。ルシェムの冬は、王都よりは穏やかだと聞いていたが、それでも朝晩の冷え込みは身に染みる。 セレーナが厚手の布を引っ張り出してきて、エリナの作業着に重ね着させた。 「寒さで体を壊したら、仕事が止まる」 「わかっています」 「わかっていても、忘れる時があるでしょう」 「……気をつけます」 素直に答えたのは、先月の母の発熱がまだ頭にあったからだ。気をつけていても倒れる時は倒れる。だから気をつける、という積み重ねしかない。 冬は、薬草薬の需要が上がる季節でもある。 ルナがすでにそれを見越して、秋のうちから在庫を増やしていた。エリナが指示したわけではなく、ルナが自分で動いた。 気づいた時には、いつもより三割多い在庫が棚に並んでいた。 「いつから準備していたの」と聞くと、「秋になった時から」とだけ言った。残り三ヶ月と少しになっていた。
フィオナからの情報によれば、クロヴェルの『最終報告の場を開かせない』という動きは、今のところ陛下を動かすには至っていないようだった。 陛下は、一年の任を与えた約束を覚えている。クロヴェルが何を言っても、その約束を反故にすることには、今のところ同意していない。ただし、陛下の周辺への工作は続いている。油断はできない。 そうフィオナは書いていた。 エリナは、その手紙を読んで、陛下が約束を覚えていてくれることに、少しだけ安堵した。 安堵しながら、同時に考えた。 陛下が約束を覚えていても、場が開かれた時に、持っていく数字が弱ければ意味がない。 場が開かれることと、場で何を見せるかは、別の問題だ。その日の午前中、エリナはゴードンと最終報告に向けた数字の全体像を確認した。
机の上に、今まで積み上げてきたすべての記録が並んだ。 ルシェムとベルナと周辺三町の供給記録。薬屋の第三者データ。学院の感染率の推移。ベルダンの独自記録。各町の病欠日数の推計。 「これだけ揃えれば、十分だと思いますか?」 「数字の量としては、十分だと思います。問題は、見せ方です」 「見せ方?」 「同じ数字でも、どう整理して、どう提示するかで、受け取る側の印象が変わります。今のままでは、数字が多すぎて、核心が見えにくい」 「核心、というのは」 「一番伝えるべきことが何か、ということです。数字を全部並べるのではなく、最も強い一本を立てて、他は補助に回す」 「一番強い数字は、何だと思いますか?」 「学院の感染率です。王都の学院で、消毒液を使うようになってから術後感染が四割以下になった。これは、王都の人間が直接確認できる数字です。ルシェムの石鹸の話より、王宮の場では説得力が違う」 「それを中心に据える」 「そうです。他の数字は、その一本を支える証拠として提示する。薬屋の第三者データは、特定の地域に限らず同じ効果が出るという証拠になる。ベルダンの記録は、民間の商会がその価値を認めているという証拠になる」 エリナは、ゴードンの整理を頭の中で展開した。 「一本立てて、他を補助に回す。その構造は、報告書全体の設計になりますね」 「はい。残り三ヶ月で、その設計を固める必要があります」 「今日から始めましょう。まず、骨格を作ります」午後、エリナはレインへの手紙を書いた。
ゴードンとの確認の内容を伝えた。学院の感染率を中心に据える方針について、師匠と合意できるか確認してほしいと書いた。 最後に一段落。 冬になった。ルシェムの朝が冷たい。ルナが秋のうちから在庫を増やしていた。指示していないのに、自分で動いていた。 こういう時、組織というものが、自分の意志を持って動き始めている気がする。それは、怖くもあるし、嬉しくもある。 あなたのところは、冬の学院はどういう感じですか? ――エリナ―― 書いてから、最後の問いを少し見た。 学院の冬がどういう感じか。 報告でも情報でもない。 でも、聞きたかった。 相手のことを、知りたいと思っている。 封をした。夕方、マリオが市場から戻ってきた。
「なあ、エリナ」 「何?」 「今日、市場でおばあさんに声をかけられた」 「どんな方ですか?」 「ルシェムで長く暮らしてるおばあさん。名前は知らない。でも、よく市場に来る人だ」 「何を言われましたか」 「『あの石鹸を作ってる子のことを教えてくれ』って。で、俺が商会の人間だって言ったら、いろいろ聞かれた」 「何を?」 「石鹸を使うようになってから、孫が病気で寝込む日が減ったって。それが嬉しくて、どこの誰が作ってるのか知りたかったって。エリナの話をしたら、おばあさん泣いてた」 エリナは少しだけ止まった。 「泣いていた?」 「うん。『そんな小さい子が、うちの孫のために考えてくれてたのか』って」 エリナは、何も言わなかった。 しばらく沈黙があった。 「……エリナ?」 「うん?」 「大丈夫か?」 「大丈夫です。ただ、少し……」 「少し?」 「目が、少し熱い」 マリオが少しだけ目を丸くした。 「お前が、そういうこと言うの、初めてじゃないか?」 「そうかもしれません」 「我慢しなくていいんじゃないか?」 「我慢はしていない。ただ、驚いている」 「何に?」 「自分が、そういう反応をすることに。石鹸を作り始めた時、おばあさんの孫のことを考えていたわけではない。でも、結果として助けていた。それを、本人から聞いた」 「そういうこともある。狙ってなくても、届くことがある」 「届いていた、ということが、思っていたより重かった」 マリオが何か言いかけて、止まった。 代わりに、ただそこに立っていた。 それで十分だった。夜、エリナはその話をレインへの手紙に追記しようとして、すでに封をしてしまっていたことに気づいた。
別の紙を取り出した。 追伸として書く。 今日、マリオから聞いた話がある。市場のおばあさんが、石鹸を使うようになってから孫が病気で寝込む日が減ったと言っていたらしい。マリオが私の話をしたら、泣いていたと。 それを聞いて、目が少し熱くなった。マリオに「初めてじゃないか」と言われた。そうかもしれない。 狙っていなかったものが、届いていた。それが思っていたより重かった。 ――エリナ―― 追伸として、最初の手紙と一緒に封筒に入れた。 二枚を一緒に送ることにした。その夜、エリナは作業場に一人で入った。
棚に並んだ石鹸の型を見た。薬草の瓶を見た。蒸留器を見た。 おばあさんの孫が、病気で寝込む日が減った。 その事実は、数字の記録にも残っているはずだ。でも、数字の中の一件として記録されている時と、本人の言葉として聞く時は、重さが違う。 前世でも、そういう経験があった。 エンジニアとして作ったシステムが、使う人の生活を少し良くしたと聞いた時。報告書の数字ではなく、実際にそのシステムを使った人の言葉を聞いた時。 重さが違った。 あの感覚と、今日の感覚が、似ていた。 でも、今日の方が重かった気がした。 前世では、自分が開発した機能の話だった。今日は、自分が一年半をかけて作ってきたものの話だった。 それだけではない。 ルシェムという、自分が今生きている場所での話だった。 エリナは棚の前に立ったまま、少しだけ目を閉じた。 この場所が、自分の場所になっている。 長屋の台所で一人、石鹸の型に液体を流し込んでいた時から、ここまで来た。 一年前の自分が今を見たら、驚くか。 驚く。 でも、今日感じたこと——おばあさんの孫の話を聞いて、目が熱くなったこと——それも、一年前の自分には想像できなかったことかもしれない。 一年前の自分は、もっと整然としていた。 感情が動くことを、できるだけ整理しようとしていた。 今は、整理しきれないことが増えている。 でも、それが悪いとは思わない。 目を開けた。作業場から出ると、ルナが入り口のところで待っていた。
「遅い」 「ごめんなさい、考えていた」 「猫が来てる」 ルナの足元に、猫が二匹いた。 「なぜ作業場に?」 「冬になったから、あったかいところに来る」 「なるほど」 「エリナも、あったかいところに来た方がいい」ルナが静かに言った。「寒いと、考えがまとまらなくなる」 「そうかもしれません」 「台所にお湯がある」 「ありがとう」 二人で台所に入った。ルナが湯呑みを二つ出して、薬草茶を注いだ。猫も一匹ついてきた。 温かい薬草茶を両手で持って、エリナは少しだけ肩の力を抜いた。 「ルナ」 「何?」 「在庫を早めに増やしておいてくれてありがとう。気づかなかった」 「当たり前のことをしただけ」 「当たり前にできることが、大事なことだから」 ルナがエリナを見た。 「エリナが教えてくれたから」 「私が?」 「最初から、当たり前のことを大事にしてた。それを見ていた」 エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。 自分がやってきたことを、ルナが見ていた。 見ていてくれる人がいる。翌朝、レインからの返事が届いた。
昨日出した手紙への返事ではなく、一日前に出していた手紙への返事だった。エリナへ
学院の冬は、静かだ。石畳が霜で白くなる朝がある。図書室が一番温かい場所なので、朝早く行く生徒が多い。俺も、たいてい図書室にいる。 感染率を中心に据える方針、師匠に確認した。「それが正しい」と言った。師匠も同じことを考えていたようだ。 骨格の設計については、こちらからも案を作る。一月以内に送る。 それから、組織が自分の意志を持って動き始めている、という話。俺も、学院で少し似た感覚がある。石鹸と消毒液の話を、今では生徒の間で自発的に話題にするようになった。俺が広めたわけではなく、使った人が使っていない人に話す、という流れができている。 広がり方が変わった。仕掛けから、自然な流れへ。 それは、怖くもあるし、嬉しくもある。お前と同じだ。 一年後、見届けたい。 ――レイン――エリナは手紙を読んで、『お前と同じだ』という一行を少しだけ見た。
図書室が一番温かい場所で、朝早く行く。 霜で白くなる石畳。 報告でも情報でもない話が、手紙に入っていた。 エリナが『学院の冬はどういう感じか?』と聞いたから、答えてくれた。 相手のことを知りたいと思ったら、聞けば教えてくれる。 当たり前のことだが、今まであまりやってこなかった。 返事を書いた。 レインへ 図書室が一番温かい場所、というのを想像した。霜の石畳の朝に、図書室へ向かう人たちのことを。 今日、追伸を一枚同封して昨日の手紙に入れた。おばあさんの話だ。読んでくれると嬉しい。 ルシェムの冬は、台所が一番温かい場所になっている。ルナが薬草茶を作ってくれる。猫も来る。 残り三ヶ月と少し。骨格の案を待っている。 ――エリナ―― 書いて、封をした。 窓の外、ルシェムの朝の空が、今日も冷たく澄んでいた。 エリナ・アッシュフォード、八歳。 冬になった。 今日、目が少し熱くなった。 そのことを、届けた。 それで今朝は、十分だ。フィオナがルシェムに来たのは、謁見から二週間後のことだった。 予告なしだった。 朝、市場から戻ったマリオが、息を切らして事務室に飛び込んできた。 「フィオナさんが来た」「どこに?」「市場の入り口。馬車で来てる。荷物が多い」「荷物が多い?」「トランクが二つある」 エリナは少しだけ止まった。 「泊まりではなく、しばらくいるつもりですか」「そういうことじゃないか? 迎えに行くか?」「行きます」 市場の入り口に着くと、フィオナが馬車の横に立っていた。 久しぶりに、ルシェムで見るフィオナだった。 王都で会った時とは少し違って見えた。服装は変わらないが、顔が少し違う。 疲れている、と手紙に書いていた。 確かに、少し疲れた顔をしていた。 でも、エリナを見た瞬間、目が変わった。 「来た」「来ましたね、予告なしで」「予告したら、準備されすぎると思って。あなたのことだから、部屋を完璧に整えて、食事まで用意して待っていそうだから」「そうしようとしていました」「でしょう。だから、言わなかった」「荷物が多いですね」「しばらくいようと思って」 フィオナが少しだけ声を落とした。「王都からの仕事は、手紙でできる部分も多い。しばらくルシェムで動きながら、こちらの空気も吸いたかった」「どのくらい?」「一週間か、二週間か。決めていない」「決めなくていいです。いたいだけいてください」 マリオが荷物を運んでくれた。 フィオナが見ると、少し驚いた顔をした。 「マリオ、大きくなった?」「なってないと思うけど、フィオナさんが久しぶりに会うから大きく見えるだけじゃないか?」「そうかもしれない。でも、なんか違う。顔が違う」「どう違う?」「前より、落ち着いた顔をしてる」「そうかな」
翌日から、エリナは動き始めた。 といっても、急いでいるわけではなかった。 落ち着いて、一つずつ。 謁見の翌日以降に何をするかは、帰り道の馬車の中でゴードンと話し合っていた。 優先順位は決まっていた。 一つ目、商会の代表変更の正式書類を処理する。二つ目、各町の現場責任者に謁見の結果を報告する。三つ目、フィオナと連携して規制案の継続審議への対応を続ける。四つ目、学院の衛生教育の検討に、商会として協力できることを提示する。 どれも、急ぎではない。 でも、止まってもいない。 まず、商会の代表変更の書類が届いた。 アルバ殿下が約束した通り、一週間以内に書状が来た。 正式な書類に、エリナ・アッシュフォードの名前が入っていた。 アッシュフォード商会の代表者、エリナ・アッシュフォード。 ゴードンがその書類を机の上に置いた。 「これで、正式になりました」「そうですね」「どういう気持ちですか?」 エリナは少しだけ考えた。 「思っていたより、静かな気持ちです」「静か、とは」「もっと大きな感情が来ると思っていた。でも、静かだった。当たり前のことが、形になった、という感じです」「それが、正しい感覚だと思います」ゴードンが静かに言った。「当たり前のことを積み上げてきたから、当たり前に形になった」「ゴードンさん」「はい」「代表名義をずっと引き受けてくれていた。本当にありがとうございました」「礼はいりません。でも、受け取ります」 それだけだった。 それで十分だった。 次に、各町の現場責任者への報告をした。 マグダ、シェナ、ジルカに、それぞれ手紙を書いた。 謁見の結果。陛下が約束を守ってくれたこと。商会の活動が引き続き認められたこと。今後も続けることができること。 返事は、それぞれ三日以内に来た。 マグダから。 エリナちゃん
ルシェムに帰った翌朝、エリナはいつもより少しだけ遅く起きた。 目が覚めた時、空はすでに明るかった。 珍しいことだった。 いつもは夜明け前に目が覚める。でも今朝は、光が差し込んでから目が開いた。 しばらく、布団の中でそのままいた。 これも珍しいことだった。 起きたら、すぐに動く。それがいつものエリナだった。 でも今朝は、少しだけそのままいた。 窓の外から、ルシェムの朝の音が聞こえた。 市場へ向かう人の足音。遠くで犬が吠える声。風が木の葉を揺らす音。 帰ってきた、と思った。 昨日も思った。でも、今朝も思った。 ここが、自分の場所だ。 台所に行くと、セレーナが先にいた。 「おはよう」「おはようございます」「よく眠れた?」「はい。遅くまで眠っていました」「そう。今日くらいは、いいんじゃない?」「そうかもしれません」 薬草茶を作りながら、エリナは窓の外を見た。 冬の朝の空は、澄んでいた。 「お母さん」「うん」「昨日、ゴードンさんから聞いた話があります」「何?」「学院が、来年から衛生教育を取り入れることを検討しているそうです。石鹸の使い方、薬草薬の知識、傷の手当ての手順を、学院の教育に組み込む話が始まっている」 セレーナが少しだけ手を止めた。 「それって、どういうことになるの」「学院で教えれば、学院の生徒が卒業して各地に行く時に、その知識を持っていく。一人が届けられる場所より、ずっと広い範囲に届く」「あなたが一年でやったことが、もっと広がるということ?」「そうなるかもしれません」「お父さんが聞いたら、何と言うかしら」 エリナは少しだけ考えた。 「『私よりうまくやっている』と言うか、それとも『まだ足りない』と言うか」「この前も同じことを言ったわね」「同じこ
翌朝、エリナは早く起きた。 今日、ルシェムに帰る。 荷物を確認した。報告書の写し。確認書の写し。殿下から預かったアッシュフォード商会の正式な代表変更に関する書状の下書き。そして、セレーナへの手紙。 全部、ある。 朝食を三人で食べた。 フィオナが、珍しく朝から饒舌だった。 「昨夜の話、全部聞かせてもらうって言ったけど」「聞きますか?」「聞く。でも、今は聞かない」「なぜですか?」「あなたの顔を見れば、大体わかるから。今日は、その顔で十分」「どんな顔をしていますか?」 ゴードンが静かに言った。 「昨日フィオナが見たかった顔」 出発前に、フィオナと二人になった。 宿の前の小さな通りで、少しだけ話した。 「フィオナ、これからどうするんですか?」「王都にいる。まだやることがある。規制案はまだ継続審議のままだ。陛下が認めたとはいえ、クロヴェルが諦めたわけじゃない」「そうですね」「でも、今日は違う話をしたい」「どんな話ですか?」「あなたが帰った後のことを、少し考えた。王都に来てからの一年間、私はずっとここで動いていた。でも、いつかルシェムに行ってみたいと思っている」「ルシェムに?」「マリオとルナに、会いたい。あなたが話してくれた人たちに。あなたが動いてきた場所を、見てみたい」「来てください、必ず」「いつ行けるかはわからない。でも、行く」「待っています」 フィオナが少しだけ笑った。 「その言葉、昨夜もレインに言ったでしょう」「言いました」「同じ言葉が、自然に出てくるようになったんだね」フィオナが穏やかに言った。「前のあなたには、なかった言葉だと思う」「そうかもしれません」「いい変化だと思う」 フィオナが手を差し出した。 エリナはその手を両手で握った。
謁見が終わって、王宮を出たのは昼過ぎだった。 アルバ殿下が廊下で待っていた。 「よくやりました、エリナ殿」「ありがとうございます。殿下の準備がなければ、今日はなかった」「王都のデータは、効きましたね」 殿下が少し笑った。「右側の列が、ざわついた」「見えていました」「父上は、満足そうでした。あの顔は、久しぶりに見た。一年前に、『わくわくしている』と言いましたが、今日はそれ以上でしたよ」 エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。 「殿下、商会の代表についてお願いがあります」「ゴードンさんから聞きました。昨夜、連絡をいただいた」「はい。正式にエリナ・アッシュフォードの名で商会を持てるよう、陛下にご確認いただけますか?」「すでに父上に話しました。年齢の問題は、特例として認めていただける方向です。正式な書類は、来週中に届きます」「ありがとうございます」「アッシュフォード商会の代表が、アッシュフォードの名前になる。当然のことですから」 王宮の外で、師匠とレインが待っていた。 師匠がエリナに言った。 「一つだけ言っておく」「はい」「今日の発言で、一番良かった部分を教えてもいいか?」「ぜひ」「クロヴェルへの返答だ」 師匠が静かに言った。「感情で返さなかった。でも、感情がないふりもしなかった」 エリナはフィオナが昨日言っていた言葉を思い出した。 「感情がないふりもしなくていい、という言葉を、昨日フィオナからもらいました」「賢い子だ、フィオナ殿は。あの返答には、あなたがいた。数字だけではなかった」「届きましたか?」「届いた。俺には届いた。他の人間にも届いたと思う」 師匠が一歩退いた。 「俺はこれで失礼する。よくやった」「先生、ありがとうございました。一年間、本当に」「礼
謁見の日の朝、エリナは四時間ほど眠った。 眠れると思っていなかったが、眠れた。 目が覚めた時、空はまだ暗かった。でも、もう眠れなかった。 起きて、顔を洗って、薬草茶を作った。 ルナが持たせてくれた葉を使った。 温かい湯呑みを両手で持って、部屋の窓から外を見た。 王都の夜明け前。 ルシェムとは違う空の色だった。でも、夜明け前が静かなのは、どこでも同じだった。 今日、謁見の間に立つ。 もう一度、確認した。 怖い。でも、届けたい。 それだけでいい。 朝食を三人で食べた。 フィオナが、珍しく静かだった。 いつもは何か言う人だが、今朝は食べながらあまり口を開かなかった。 エリナが「どうかしましたか?」と聞くと、フィオナが少し笑った。 「緊張してる」「フィオナが?」「私も人間だから。あなたが緊張するより、私が緊張してる気がする」「なぜですか?」「あなたが上手くいくかどうかを、見ている立場だから。自分が話すより、大事な人が話すのを見ている方が、緊張する」 エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。 大事な人が話すのを見ている方が、緊張する。 「フィオナ」「何?」「今日、謁見の間に入れますか?」「入れない。謁見の場に入れるのは、名前がある人間だけ。私には、今は資格がない」「そうでしたか」「廊下で待ってる。終わったら、すぐ出てくるでしょう。その顔を見る」「どんな顔をしていると思いますか?」「わからない。でも、見たい顔をしていると思う」 謁見の前の十分間は、王宮の廊下の一角で過ごした。 フィオナ、ゴードン、エリナの三人。 廊下は石造りで、冷たかった。外の空気が、石を通して伝わってくる。 エリナは上着の内ポケットに手を当てた。 手紙が、ある。 フィオナが言った。 「今日の目標を、一つだけ確